@article{oai:atomi.repo.nii.ac.jp:00004246, author = {井上, 優}, issue = {58}, journal = {跡見学園女子大学文学部紀要, JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE}, month = {Mar}, note = {application/pdf, text, 谷崎潤一郎『母を恋ふる記』(「大阪毎日新聞」夕刊 1919(大正8)・1・18~2・19、「東京日日新聞」同年・1・19~2・22)は、大正6年に死去した母、関への<母性思慕>を描き、谷崎文学の中でいわゆる<母恋いもの>の系列に連なるものとされてきた。谷崎の本格的な<母恋いもの>小説のはじまりに位置づけられるものとして重要視されてきており、作中には以降の谷崎の<母恋いもの>と共有する要素も散見される。また主人公=語り手が見た「夢」を語ったものとして幻想文学としての側面もある。しかし本論考では、「潤一」と呼ばれる語り手「私」の「夢」の中で彼が「お母さん」と呼びかける二人の女と彼との関係には、<母性思慕>や<女性性>といった観点からの解釈に覆い隠されてしまっているものがないかを考察する。物語の結末において母子の間で流される涙には、母子の一体化というようなことが実現されているのかどうかについて、「歓待」と「贈与」の観点から捉え直しを行う。  作中の語り手「私」は、初めに訪れた家の「媼」に「無条件な歓待」を求めつつ得られなかった。にもかかわらず、その後に出会った母に対しては、交換条件を介在させた、「円環の経済=配分法則(エコノミー)」に基づく「涙」しか「贈与」しなかった。「私」は他者として「無条件な歓待」を受けられなかった子供であるともに、母「無条件な歓待」で迎えない子供となっており、そして母もまた子に対し交換条件を示すことで「無条件」に「歓待」をなし得ていない。母子の間においてでさえも、いや、誰でもないこの母でなければならず、また他の子ではないこの子でなければならないという、相互の同定と承認が強く求められる関係性であるがゆえにこそ、そこは「無条件な歓待」の成立がかえって最も難しい場であるのかもしれない。一見、母子の喜びに溢れた、母子の融合が出来した、<母性思慕>の成就であるかのような瞬間には、そうしたアイロニーが潜んでいる。}, pages = {23--42}, title = {エコノミーのなかの母子 ―谷崎潤一郎『母を恋ふる記』論―}, year = {2023} }